●素直な心
「人間を考える」 - 松下幸之助 著
素直な心とは私心なくくもりのない心といいますか、一つのことにとらわれずに物事をあるがままにみようとする心なのです。そういう心からは物事の実相をつかむ力が生まれてきますし、それにもとづいて、なすべきことをなし、ますべきでないことを排する勇気というものも涌いてきます。素直な心の中には、愛といいますか、憎むべき相手をも愛するといった心、また誤りをただし、正しい方向に導くといった心、そういうものも含まれると思います。また、高い見識というものも、こういった素直な心によって養われるのです。一言でいえば、素直な心は、人間を正しく強く聡明にするものです。
●素直とは、本来の正しさに従うこと
「成功する経営 失敗する経営」- 江口克彦 著
素直な心とは、私心なく曇りのない心であり、一つのことにとらわれずに物事をあるがままに見ようとする心、無の心である。そういう心からは、物事の実相をつかむ力が生まれてくる。それに基づいて、なすべきことをなし、なすべきでないことを排する勇気というものも湧いてくる。素直な心の中には、誤りをただし、正しい方向に導くといった心、そういうものも含まれるだろう。又、高い見識というものも、こういった素直な心によって養われる。
一言でいえば、素直な心は、人間を正しく強く聡明にする。
本当の素直とは、天地自然の理に対して、すなわち本来の正しさに対して素直であるということである。
言い換えれば、物事の真実を受け入れようとする力の湧いてくる心である。正しいこと、真実なるものに忠実であり、従順な心である。事の善悪を問わず他人の言うことを鵜呑みにして、考えることもせずなんでもハイハイと従順であるのではなく、間違っていることであるならば敢然とこれを排し、その物事の真実を見極めて、それに従う態度である。
そのような素直な心に徹して行動していると、一言でいえば、物事の真実をはっきりとつかむことができる。物事の真実とは、天地自然の理である。その天地自然の理は、人間の知恵を超えて、大きくこの宇宙に働いている。すなわち幸せの青い鳥ではないが、それは誰の目の前にもすでに存在しているのである。しかし、それを感じ取ることが出来るか否か。とらわれた心、こだわった心、かたよった心では、物事の真実を感じ取ることができない。素直な心、無心に徹してこそ、物事の道理がはっきりと分かってくるのである。
すなわち素直な心に徹すれば、いかなる問題に直面しても、その事柄が正しいことか、正しくないか、あるいは「これはこうしたほうがよい」とか「今こういうことをすると不利だ」とか、「少しのあいだ見合わせたほうがよい」というように、一つ一つ正しい判断がはっきりと下せるのである。
●素直な心の極致をめざして生きる
人間というものは、欲心、欲望にかられて、それにとらわれてしまう。だからこそ素直な心になりたい。素直な心が働くことで、人間は賢く、聡明になっていく。
素直な心になりましょう。素直な心になれば、あなたは強く正しく賢くなっていく、と、こうなる。素直な心になれば賢くなっていく。素直な心の極点というか、極致は、賢さの極致である。賢さの極致とは何かというと、神さんの知恵や。そうすると、素直な心になれば神になるということや。きわめて簡単である、ということになるわけや。
皆さんは、素直な心がある程度あるでしょう。しかし、完全無欠ではない。ともすれば欲心とか欲望にかられて、それにとらわれる場合がある。素直な心は働くが、その働き方には厚い薄いがある、強弱がある。それが、いつの場合でも完全無欠に働くとでも申しますか、素直な心の極致というものは聡明の極致に通ずるものである。聡明の極致に通ずるということは、聡明ということは賢いということやろ。で、賢い極致というたら、もう賢さに徹するということになる。
だからね、神さんの知恵と一緒や。素直な心になるということは、だんだんとそれが強まっていったならば神になるということやな、早くいえば。人間の格好をしているけども、人間にちがいないけども、あの人は神さんみたいな知恵出しはるなと、こういうことに通じるわけや。これは非常に簡単明瞭やと。けども、なかなか素直になれんから、これは問題やな。
[1976]松下幸之助 [述]